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シッダールタ

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久しぶりに世田谷パブリックシアターに足を運びました。草彅剛主演の舞台「シッダールタ」を観るためです。
ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」が原作になっているということで、私はヘッセが大好きなのでこれはぜひ観たいと思っていました。あの哲学的で難解な小説の主人公を草薙くんがどういう風に演じるのかにも興味がありました。

この舞台はすばらしかったです。スタッフは誰なのか調べたら、演出は白井晃! 
私は「遊◎機械/全自動シアター」という白井さんが高泉淳子とやっていた劇団が大好きで、クリスマスの時期は毎年「ア・ラ・カ・ル・ト」を観劇していました。解散後にご本人の俳優としてのお姿はTVで時々拝見していたけれど、失礼ながら演出家として大活躍されていたことを知りませんでした。だからこの舞台美術の見事さには本当に驚きました。この舞台からは無限大の宇宙を感じて、心が震えました。

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舞台の写真をお借りしたのですが、世田谷パブリックシアターというのは演劇のために作られたホールで、舞台はそれほど大きくありません。そしてどの席に座っても、舞台がとてもよく見えます。
舞台上には緩くカーブした銀色の反射板が張り巡らされています。そしてこの反射板を駆け下りたり滑ったりして役者が舞台に登場し、退場するときは逆にこの反射板を登って越えないといけないのです。
けっこう角度があるので、上り下りする役者にとっては体力(腕力・脚力)もいるし恐怖も感じるんじゃないかと思いました。この反射板の上にはもうひとつ舞台があって、上の舞台に役者が立つことで空間の広がりをさらに感じることができます。
この反射板は役者が出入りする壁になるだけでなく、森の風景に溶け込んだり、時には世界の情勢を写すスクリーンにもなります。この舞台美術はすばらしい発想だと感動しました。

お鉢のような、花びらのような、この反射板の独特なカーブは何を表現しているのでしょうか?
舞台全体を包み込むような柔らかな曲線になんとなく見覚えがある気がしました。
ちょっと極端な解釈かもしれませんが、下に貼った奈良の大仏の左手の指のカーブがまさにこれだと思います。
無限大の宇宙にある仏の手のひらの上で我々人間は踊らされているだけ。そこから出ようともがいても手のひらから外に出ることはできません。→これは孫悟空が好きな方にはイメージしやすいと思います。
舞台全体が仏の手のひらの上だと捉えると、これは計り知れないほど奥深い舞台だと言える気がします。

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また舞台上に褐色の砂が撒かれていて、場面が大きく転換するときに、この砂を数人の役者が素手で搔き集め、きちんとまっすぐではなく大雑把に砂を手で払いのけていきます。
そして砂がなくなった場所に水色のライトが当たると! いつの間にか舞台上には「川」が現われ、川の水が流れ出します。この舞台には「川」が大きな意味を持つとわかっていたからこそ、砂を動かすだけで川と川岸が目の前に出現したときは心の中で歓声を上げました。
砂は人が歩くだけでも少しずつ変化します。それもまた「無常」を表現しているようでとてもおもしろいと思いました。


この舞台の脚本を担当したのは長田育恵さん。NHK朝ドラの「らんまん」の脚本を書かれた方として有名です。「らんまん」は植物学者「牧野富太郎」の生涯を描いていて、花を見つけると地べたに這いつくばって花と話してる様子がまるで自分を見ているようでものすごく共感して観たドラマです。
ヘッセも自然をとても愛した人で、虫や花や木が大好きでいつも会話していたそうです。多分長田さんもヘッセのエッセイ集などを読んだことのある方なんじゃないかと想像しています。

そして、驚くことに、私が大絶賛した2018年の舞台「豊饒の海」の脚本を書いたのが長田さんだったんですね!!!
この舞台は三島由紀夫の「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の四部作を一本の舞台作品としてまとめ上げたすごい芝居だったのです。完璧にひとつの作品になっていて、よく繋げたなと感心したのですが、これを成し遂げるためには、輪廻転生やインド仏教などに造詣が深くないとできなかっただろうと思います。
今回の「シッダールタ」の脚本の話が彼女に行ったのは、こういう過去の業績から当然の流れだったのではないかと思いました。

先に言っておきますが、「シッダールタ」というのは釈迦の本名「ゴータマ・シッダールタ」から来てはいますが、ヘルマン・ヘッセが描いたのは釈迦が悟りを開くまでの物語ではありません。
釈迦と似た境遇で生まれたシッダールタという青年が、自我の問題に苦しみ、自我を捨て「無」になるために育った家を離れ修行の旅に出ます。そこで苦しい修行を行うのですが、どうしても解脱の道にたどり着けません。
そして「ゴータマ」と呼ばれる仏陀に出会います。仏陀は苦しい修行の末に執着から離れ、輪廻から解脱し、涅槃の境地にたどり着いたとして各地で説法し信者を増やしていました。
シッダールタは仏陀の説法を聞きすばらしい教えだと感じるのですが、言葉でいくら聞いても自分の自我から解脱することはできないと仏陀の元を離れます。
そして、彼がたどり着いたのは人間の欲があふれかえる街。そこで食欲・性欲・金銭欲にまみれた生活を送るようになります。ところがそんな生活を送るうちに、強烈な虚しさに襲われるのです。
自分が求める世界は一体どこにあるのか・・・。この愚かな人間はどこへ向かえばいいのか・・・

公式イントロダクションにはこの芝居の主題が書かれていました。
【極めて不安定な世界情勢の中、情報の氾濫、価値観の変容、哲学の喪失によって混沌とした世界の中で、宗教とは何か、他者とは何か、そして、個のアイデンティティとは何かを、この作品を通して映し出し、平和主義を唱えたヘッセが「シッダールタ」で何を伝えようとしたかを考えていきます】

物語は、現代に生きる男が自分の生き方について悩んでいます。人は不均衡で醜い時代に生き、歪んだ世界を前に自分には関係がないと目を背けることしかできません。見えているけれど見えない。聞こえてくるけれど聞こえない。男は自分には何も変えられないと苦しんでいます。
芝居は、ヘルマン・ヘッセの小説に登場するシッダールタと現代に生きる青年の苦悩を重ねて描くことで、紀元前のインドの話を現代に繋げて考えようとしています。
その試みは成功していたと思うのですが、反戦の想いが伝わってくるシーンには多少の違和感を感じました。「シッダールタ」を読みながら私が感じたことにそれは含まれていなかったので。
でも今の時代に、芝居として「シッダールタ」を観客に届けるためには、着地点はそこにせざるを得なかったのだろうなと思いました。
(→この違和感は後で解消します。原作が「シッダールタ」だけではなかったのです。)

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ここから少し小説の話になります。

ヘルマン・ヘッセが描く「シッダールタ」は仏陀と同じ時代に生きた男の一生を描いていますが、このシッダールタはヘッセ自身の姿だと捉えることができると思います。

「一切は虚偽であり、悪臭を発した。一切は意味と幸福と美しさを偽装していた。一切は隠れた腐敗であった。世界はにがい味がした。人生は苦悩であった」
苦悩から逃れるために、偉人の教えに救いを求めます。
でも、偉人は自ら悟りを開き、生きる道を説くけれど、悟りを体験したことがない者には説法を聞くだけでは自我を滅することができません。ただ安心して救われているように見えるだけで、すべてはまやかしにすぎないのではないかと彼は考えます。
自分に対して不安を抱き、自分を欺き、自分から逃れ、隠れることしかできない。
言葉からは何も得られないと気づいた彼は、万物に目を向けます。

世界は美しく、多彩で、謎に満ちています。空があり、川が流れ、森と山々に囲まれています。その中で「自分とは何か」と考え続けます。
事物が事物である意味と本質は、その一切の物の中にあったのだと気づきます。
世界をそのままに、何も求めるところなく単純に観察すると、なんと美しいことか。
自分の足で歩き、自分の目で見て触れる。
本を読み、人の言葉を聞くだけでは得られない確かなものがそこにはありました。

関心と好奇心は人間に向かいます。多くを学び、経験する中で、俗世間の快楽、欲望、惰性が彼を捉えます。
彼の魂は疲れ、重くなり、衰えのきざしが現われます。
老いに対する恐怖、死に対する恐怖に支配されるようになります。
深い悲しみに包まれ、この無意味な生活から抜け出したいと願うようになります。
今までの自分は根拠のない自負に満ちていた。この自負の中に自分の自我は根を張り増幅していたということを知ります。堕落した生活の空虚さと無意味さ、絶望を経験することで、彼はもう一度自分自身と向き合う決心をします。

彼の話をただ傾聴するだけの人物と出会います。
邪心を持たず、静かな心で、開かれた魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、ただ彼の意見に聞き入るだけの人物です。
その賢者は「川から<時間は存在しない>と学んだ」と話します。
「川の水は流れ流れ、絶えず流れて、しかも常にそこに存在し、常にあり、終始同一であり、しかも瞬間瞬間に新たである」
「川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」

「すべての苦しみは時間ではなかったか?自らを苦しめることも、恐れることもすべて時間ではなかったか?時間を克服し、時間を考えないようになることができたら、この世の一切の困難と敵は除かれ克服されはしなかったか?」

そして「生きとし生けるもののすべての声が川の声の中にある」と思うのです。
「川を流れる水は、生命の声、存在するものの声、永遠に生成するものの声」にあふれ、「現在と過去も未来も同時だという感情、永遠の感情」を与えてくれます。
彼は川を見て「あらゆる生命の不壊不滅と、あらゆる瞬間の永遠性」を感じます。

彼が水の中を覗き込むと、そこには苦悩する父の姿、己の姿、息子の姿が見えます。出会ったすべての人々の姿も現れ、溶け合って、みんな川の流れとなります。

「水は蒸気となって、空にあがり、雨となって、空から落ちた。泉となり、小川となり、川となり、新たに目標をめざし、新たに流れた。」
「すべての声、すべての目標、すべてのあこがれ、すべての悩み、すべての快感、すべての善と悪、すべてが一緒になったのが世界だった。すべてが一緒になったのが現象の流れ、生命の音楽であった」
「彼の顔には悟りの明朗さが花を開いた。いかなる意思ももはや逆らわない悟り、完成を知り、現象の流れ、生命の流れと一致した悟り、ともに悩み、ともに楽しみ、流れに身をゆだね、統一に帰属する悟りだった」

生きることに苦しんだヘッセが、言葉を離れ、川の流れにこの世の姿を見て、自分自身も大きな流れの中にあることを悟るのです。
本当にすばらしい小説だと思います。(私は新潮文庫の高橋健二訳を読み、本からの引用は「」で括りました。)

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舞台の公式HPには、原作は光文社古典新訳文庫の酒寄進一訳の「シッダールタ」「デーミアン」となっていました。
原作が「シッダールタ」にしては違和感があると思った反戦の部分と、苦悩する現代の若者のシーンは「デーミアン」からヒントを得て書かれたのだと思います。
「デーミアン」も何度も繰り返し読みたくなる名作で、自分の心の中に邪悪な部分があるのを知り苦しむ青年が自分自身のアイデンティティを追求する話です。破壊があってこそ再生があると信じていた主人公は目の前で人の命が奪われていく戦争(世界の崩壊)を実体験します。そこで何を感じたのか、主人公の心が向かった先を描くラストは重く心に響きます。


今回の芝居はこのヘッセの難解な小説2作が脚本家の手によってアレンジされ、とても平易な言葉で舞台化されています。ヘッセの思想も含めて一本の芝居に見事に繋がっていて、改めて作家の力量に圧倒されました。
視覚に訴えて観客を想像の世界へ誘(いざな)い、演劇の楽しさ=胸が高鳴る興奮も与えてくれたと思います。
終演後の会場はスタンディングオベーションの拍手と歓声に包まれていました。


最後になりましたが、シッダールタを演じた草彅剛くんを始め、出演者の方々全員の芝居は素晴らしく、長い台詞を自分のものにして、あの反り立つ壁を何度も何度も乗り越えた熱演を称賛したいです。
(お名前は存じ上げませんが、鹿を演じた方の動きには感心させられました。^^)


執着するのはやめようと思っても、こういう感動的な舞台を見ると、もっともっと観たい・・・と思ってしまいます。
今日、野田さんの新作舞台のチケットのお知らせが届いていました。前回のチケット争奪戦の辛さが頭に蘇ります。
もう引き際なのはわかっているのですが、生の舞台から得られる幸福感をなかなか手放すことができません。
欲を断ち切るというのはたいへんなことだと日常のこんな些細なことからも感じています。



by choyon | 2025-12-13 16:05 | ★演劇・落語 | Comments(0)

推しは周杰倫、五月天の阿信。新たな推しは許光漢!(推しはたくさんいた方がいい。^^)すべてネタバレあり。独断と偏見に満ちた自己満ブログです。


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