2025年 11月 15日
旅と日々

ロカルノ国際映画祭でグランプリである金豹賞を受賞したと話題になっています。
ロカルノってどこの国の都市なのか調べたら、スイス南部のイタリア語圏ティチーノ州にあるのだそうです。
金豹賞を受賞した日本の作品は、衣笠貞之助監督「地獄門」、市川崑監督「野火」、実相寺昭雄監督「無常」、小林政広監督「愛の予感」に続き5作目になるようです。未見の映画ばかりですが、なんとなく渋い作品が好みの映画祭なのかなと感じます。
この映画は公開になるのを楽しみにしていました。
何と言っても「夜明けのすべて」を撮った三宅唱監督作品です。「夜明けのすべて」は本当にいい映画で、私は2回観に行きました。監督の優しいこだわりが細部にまで行き渡っているような映画でした。
そして期待どおり、この映画も私の大好きなタイプの映画でした。
多くを語っていないので、自分の感覚で観るしかありません。人によって好みが分かれるだろうし、映画の捉え方は変わるでしょう。私も監督の伝えたかった想いをちゃんと受け取れたかどうか自信がありません。
でも どういう見方をしても「それはそれでいい」と監督は言ってくださると思います。
この映画は、つげ義春「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」が原作になっています。
私は「ほんやら洞のべんさん」は読んだことがなく「海辺の叙景」は読んだことがあります。
つげ義春の作品も読む者に解釈が委ねられます。とても奥が深いと感じますが、描かれているのはあくまでも男性中心の視点による世界で、女性には受け入れられない部分があります。以前、同じ漫画家の作品が原作である日台合作映画を観て、吐き気がするほどの嫌悪感に襲われたことがあります。それは原作に対するというより台湾を舞台にアレンジされた映画に対しての嫌悪感で、その記憶は私の中で消えることがありません。そのため、この映画もつげ義春原作だと聞いて一抹の不安がよぎりました。
でも、それはまったくの杞憂でした。二つの原作を繋げた構成の巧みさ、映画全体に漂う雰囲気、登場人物たちの魅力、すべてにおいて、しみじみとした味わいがあり、見終わった後 静かで心地よい余韻に包まれました。
こういう情感は日本人にしか理解できないものだと思っていましたが、ロカルノの人々には通じるものがあったんですね。
ネタバレあり
主人公は日本に住む韓国籍の脚本家です。彼女は話す時は日本語、書くときは韓国語を使います。
「何をやってもうまくいかない・・・。自分より不幸な人はいない・・・。暇になると考えすぎて病みそう。海辺でボーっとしてたら楽になるかな」
そんな寂しい男と女が海辺で出会います。
子供を抱いた母親の水死体が発見された話をします。
雨の中、ボート小屋でみつまめを食べます。
台風が来ているのか荒れ狂う大波の中を2人は泳ぎます。
泳ぐには寒くて 唇が青くなってると言い合います。
男は魚を追ってどんどん沖に向かって泳いでいきます。
もっと奥へ!と女は男に叫びます。
できあがった映画を初めて見た時の感想を聞かれた脚本家。
「私にはあまり才能がないなと・・・」
脚本家は言葉に縛られています。彼女にとって表現の方法は言葉しかありません。
それはまるで「言葉の檻」に閉じ込められているよう。
けれど、映像にしてみると、自分が書いた言葉とはイメージが違うのです。自分が書いたはずの言葉がそこにはないような気がします。
渦を巻いて吹く風、どしゃぶりの雨、大きくうねる波、木々のざわめき、ひらりとめくれるスカート・・・。
映像に五感を刺激され、身体全体で感じ取る映画だからこそ、言葉よりも感性で受け止めることに重きを置かれます。
自分が何を書くべきか迷う脚本家は旅に出ます。しばらく言葉から離れようと思ったのです。
手には故人から譲り受けた古いカメラがありました。
風景を写しながら彷徨ううちに、辿り着いたのは雪に埋もれた小さな宿。
その崩れかけた宿は べん造というおじいさん?が一人でやっていて、女性が一人で泊まるには勇気がいるような場所でした。初日はべん造さんのイビキで眠れません。
脚本家は、べん造さんがどんな人なのかをやはり言葉で捉えようとします。疑問に思うことが言葉によって解決しないと先に進めないのです。
どんな場所でも、どんな境遇でも、そこに人がいる限り日常の生活があります。
着いたときは緊張していた脚本家は、べん造さんと2人だけの空間になんとなく気持ちが癒されていきます。
着いたときは緊張していた脚本家は、べん造さんと2人だけの空間になんとなく気持ちが癒されていきます。
年季の入った古い道具類には趣きがあります。壊れた家具に釘を打ち付けて修理するべん造さん。
質素だけど心のこもった食事。ちょっとおせっかいな会話。
「どうもならねえ」と哀しみを受け入れて生きるべん造さん。
飾らない人柄のべん造さんとの体験はすべてが新鮮でした。
しんしんと降り積もる雪、冷たい小川のせせらぎ、ノコギリで木を切る音、飯を炊くかまどの湯気…。
雪に閉ざされた誰もいない宿は清浄な空気に包まれています。
べん造さんと寝食を共にすることで、脚本家はこの世には言葉にはできないものがあることを悟ります。
旅に出て他人と触れ合うことで、こだわりから解放されて心が柔軟になっていくのを感じます。
人間というのはなんてちっぽけな存在なのでしょう。
夜 雪の中を歩く二人は、風景に溶け込んで姿が見えなくなっていきます。
言葉は表現のための大切なツールですが、言葉がなくても人は「感じ取る」ことができます。
つげ義春の漫画も同じです。すべてが描いてあるわけではありません。一コマ一コマに自分の感性のすべてを投入して「感じる」だけです。
自分が感じたことは心に残り続けて、映画を自分だけのものにしてくれます。
残念ながら映画を観てから一週間以上経ってしまい、印象はどんどん薄れ、思い出すシーンは自分の頭の中で自己流に上書きされていきます。
映画を観て感じたイメージを拾ってみたけれど、書き足らない気がしてもどかしいです。
そういえば、この映画に登場する2つの物語はどちらも旅で出会う男女の話ですが、全く違う趣がありました。
夏と冬、海と山、雨と雪…。
私は、劇中劇の方に「死」の匂いを強く感じました。性的なイメージは死につながります。水死体の話もおぞましく、高い波の中を泳ぐ男はそのまま波に呑まれてしまうんじゃないかと心配しました。風は荒れ狂い、私の不安を煽ります。
べん造さんの宿の話はとても静かです。家の中でも吐く息が白くなるほど寒いのですが、竃の火は赤々と燃えています。そこには生活の匂いがあって、猫の鳴き声や鳥のさえずりが心地よく感じられました。
どちらも自然と共にある人間の姿を描いてはいますが、死と生の対比も感じられたことを付け加えておきます。
脚本家を演じたシム・ウンギョンの演技が素晴らしかったです。
すべてのシーンで物事を深く感じ取ろうと自分自身の心と向き合っている様子が伝わってきました。
日本語のセリフも日本人の感性も完全に自分のものにしていて、上辺だけではない真摯な演技が観客の胸を打ちます。
河合優実の官能的な演技も素敵だったのですが、劇中劇という微妙な立場だったので、少し損をしたかもしれません。
べん造さんは最初 地元の素人さんが演じてるのかと思いました。方言も自然だったし、田舎へ行くとこういう人っているよなと・・・。味のある演技でうまいなと感心して見ていたら、子供が出てくるシーンで「もしかしてこれは?」とびっくりしました。
ファンなのにエンドクレジットで名前を見るまで確信が持てませんでした。私がその主演舞台を生で見るたびに天才だと思ってた俳優さんで、べん造さんとして風景に溶け込んでいる姿はやっぱりさすがだなと思わされました。
【追記】
BRUTUS No.1043 特集「美しき、日本映画」で、三宅監督がこの映画のことを語っていらっしゃいます。
それを読むと、ここで私が書いてることがどれほどズレてるかがわかります。そういうことだったのかと目から鱗。
特に「これは背中を見送る映画」という監督の言葉には参りました。そこまで感じ取ることができなかったので。
そして、脚本家は「既成の物語や型通りの言葉の"檻“から逃れたい」と思ってたんですね。
本当に奥が深い映画なので、機会があればもう一度観てみたいです。
2025.11.26
by choyon
| 2025-11-15 18:59
| ★日本映画
|
Comments(0)

